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あいまいな宇宙の全て(前編)

タイトルを結構考えたけど、無難なものにした。

 

 大江健三郎は川端康成著「美しい日本の私」について、『きわめて美しくきわめてあいまい』と言っている。その際のあいまいには<vague(ヴェイグ)>が使われている。vagueの意味は<漠然とした>とある。

 

他方、大江健三郎著「あいまいな日本の私」のあいまいとは同じあいまいでも<ambiguous(アムビギュアス)>の方なのだそうだ。「あいまいな日本の私」は「美しい日本の私」の批判、要するに「ディスる」ために書かれたものと言える。

 

ambiguousの意味は同じあいまいでも<両義性>という性質が濃いものだろう。両義性とは一つのことがらの中に二つの意味を持つものとしてあいまいと言える。「インテリアとしての家電」なんかがそうじゃないかと思う。一つに二つの意味が内包されている状態。

 

なんでこんな有名な先生を引き合いに出しているのかというと、私は両氏をディスりたい訳ではなく、私のあいまいさについて書きたいのだが、あいまいという日本語はとてもあいまいで、私が使いたいあいまいは<ambivalence(アムビバレンス)>だと思う。ambivalenceは<両価性>という意味で要するに「好きだけど嫌い」といったところだろう。心理学などで使われている。

 

統合失調症の症状としてもambivalenceな状態があると聞く。

そう書くとびっくりする人も多いだろう。でも「今日の飲み会、行きたいけど行くのちょっと面倒だな〜」なんてことは誰しもよくあると思う。

 

余談だが、大江健三郎は川端康成のことを ambivalence な気持ちで見ていたような気がする。全く気にならないなら著作物を読んだりしないだろう。

 

・<vague(ヴェイグ)>漠然とした

・<ambiguous(アムビギュアス)>両義性

・<ambivalence(アムビバレンス)>両価性

は日本語で表すと全て『曖昧(あいまい)』になってしまう。私たちはこれらをまぜこぜにして使っていて差し支えない。

 

なぜなら全てに陰陽があり、男と女、光と影、など相反する状態が一つのことがらに二つ入っているのが普通だから。

 

それは<ambiguous(アムビギュアス)>の両義性と言えるし、<ambivalence(アムビバレンス)>の両価性とも言える。そんな状態をvague(ヴェイグ)>の『漠然とした』状態である、と言って差し支えないだろう。そもそもあいまいでないものなんかどこにもない。

 

さて、量子力学的には、量子の状態は『観測した瞬間に決まる』のです。量子はふだん、粒であり波でもある。観測した瞬間に波のように振る舞うのです。

 

私たちヒトも、このパソコンも、コップも全て量子でできているから、あいまいでないものなどどこにもない。あなたが観測していない時に私はどんな状態なのかわからない。

 

 

 

さて、ここまでが前提だからびっくりしちゃうよね。